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そろそろ真剣に考えなくてはならないのではないか?

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内閣総理大臣が好き勝手に辞任したり、国民健康保険制度の破綻がひた隠しにされていたり。 産地を偽装した食品を売りさばいておいて「みんなやっている」と開き直る経営者がいたり。 私の身近なところでは、勤務先で業績不振のため有無を言わせぬ人減らしが行われたが、業績に責任のあるはずの経営者はだれも退任しなかったり、と。

日本はあたかも誰も責任をとらなくてもよい社会になってしまったかのように見える。これは私ひとりだけの感想ではないと思う。

かくいう私は、実は根っからの怠け者としてオトナになってしまい、できれば好きなことだけやって重い責任とは距離をとっておきたいと常々願っている適当な人間である。また、他人の責任のあれこれをあげつらうのは好ましくないものだとも思っている。

しかし。

小さなわが子を抱き、見返す無辜の瞳と見つめあっていると、じわじわとした不安や焦りに襲われる。 大人には、これから未来を生きてゆくヒトタチに「よりよい」とはいわずとも「ましな」社会や文化を譲り渡す責任がある。

しかし日本は社会的な問題に対して、誰も責任をとらないルール無用の無責任社会になってしまった。これはすでに悪い意味での「文化」のレベルに達してしまったかに思える。そうでなければ「みんなやっている」などという台詞がスラスラ出てくるとも思えない。

どうしたらいいのか。

努力したヒトが報われる社会である事にこしたことはない。しかしもし現在・そして未来が、よりズル賢さ・ダーティさが必要な社会だった・になったのなら、競技種目が変更されたことを社会が共有し、この種目ではどこからがファウルで、どこまではスルーされ得るのかを明確にすべではないのか。

また、どうしたらいいのかを考えるために、何故こうなってしまったのかも知る必要がある。

最近のある日から突然、誰もが急に責任をとらなくなってもよくなった、ということでもあるまい。 そこに至る過程があるはずだ。「無責任社会」と特別に意識されるになるまでの過程が存在しているはずだ。

それは当然、比較的小さな「無責任な」行為の社会的な積み上げの歴史が質(文化)に転化する過程や、急激に質に転化するような強烈な歴史的事象が存在したはずである。また、その「無責任な」行為を許諾する、表面的には見えづらい多重な社会構造があるはずなのだ。

それが具体的に何であったのか。

未来を生きるヒトタチのために、我々はそれを真剣に考えなくてはならないのではないか?